黒い指先は混沌に触れ「運命とタイミングの問題」


その屋敷があったのは山の奥だった。
都市部から車で数時間の距離にある、とある村からさらに歩いて山中に向かう事一時間。
長い階段の最後の石段に足をかけ、青年は前方に見えた古めかしい門扉をジッと見つめた。
上着のポケットに手を突っ込み、出した携帯端末に放り込んだ画像データと目の前の屋敷を交互に見比べる。

「やっと着いたか・・・」

久しぶりの日本での仕事、なのだがもっと仕事は選ぶべきだったのかもしれない。
こんな辺鄙な土地にまでわざわざ足を運ばなくても彼の実力ならば楽に大金を稼ぐ事が出来た。
それなのにどうしてこんな依頼を受けてしまったのか。
その時の自分の判断をやや後悔しながら、彼は門扉を押して屋敷の中へと足を踏み入れる。
錆が浮かんだ鉄の扉は甲高い金属音を響かせながら徐々に開かれた。
荒れ果てた屋敷の庭は草木が無秩序に伸び、白い石畳も所々に苔が生えている。
人が住まなくなれば家屋はすぐに荒れ果てる。
住まう主を無くして数年経つこの屋敷の荒れ具合を目の当たりにして、彼は小さく溜息をついた。

「ま、ここに住もうなどと考える馬鹿はいないか」

一歩踏み出す。
屋敷の内と外を隔てる境界を彼の爪先が越える。
途端、彼の全身に突風が吹きつける様な衝撃が走った。
僅かに顔を顰める。
そして身構える。
周囲に警戒の視線を巡らせ、感覚を研ぎ澄ませる。
それは彼が想定していた以上の害意を持ってやってきた。
悲鳴とも怒りの絶叫ともつかぬ音が耳を劈く。
屋敷のあちらこちらから黒い霧の様なものが沁み出してきた。
肌の上をピリッと無数の針で刺された様な感触を覚える。
ねっとりとした瘴気が閉鎖された空間の内部に溢れかえっている。
確かにこれでは並みの術者にはきついだろう。
自分の様な者に依頼が回って来るのも納得がいくと言うものだ。
勿論彼にとって依頼を受けた理由はそれだけではないのだが。

「浄化・・・はこれ程の規模だと準備なしではきついな。ならば」

トンと右の爪先で軽く地面を蹴る。
次の瞬間、彼の体に触れんばかりに迫っていた瘴気が見えない圧力に押されたように吹き飛ばされる。

「シュヴァルツ、出て来い」

青年の呼び声に答えたのはこの場に似つかわしくない軽やかな猫の鳴き声だった。
足元の影からするりと一匹の黒猫が姿を現した。

「面倒な防御はお前に任せた」
「相変わらず使い魔遣いが荒いにゃ」
「猫の手も借りたいんだよ」

一瞬だけ伏せられた眼差し、その双眸が再び前を向いた時、瞳は僅かに紫の輝きを湛えていた。
それは確かな『力』の証拠だ。
この屋敷を取り巻く怪異をねじ伏せるだけの力を持った者のみが持ち得る呪力を帯びた眼。

「屋敷には極力傷を付けるな。依頼の内容はこの屋敷を包む結界と溜まりに溜まった怨念の除去のみだ」

彼の手のひらの中に小さな炎が灯る。
じりじりと再び輪を狭めてくる瘴気に対し青年は挑戦的な笑みを浮かべた。

「探す手間が省けて大助かりだ。とっととかかって来い。全部焼いてやるよ」

その言葉を機に、割れ鐘を叩いた様な不快な音と共に瘴気が彼めがけて殺到する。
深紅の炎が放たれる。
この瞬間に彼、九峪雅比古の仕事が始まった。





「どうだ?汚染はどのレベルまで下がった?」

瘴気の残滓を払いながら九峪は使い魔の黒猫に問いかけた。
屋敷の敷地内のあちらこちらに感覚の網を広げながら黒猫、シュヴァルツは口を開く。

「大方滅し終わったにゃ。これぐらいなら並みの術者でも祓えるから放っておいてもいいかもにゃ」
「まあそれぐらいなら結界を解けば山の力場に呑まれるだろうさ。開発によって減じたとは言え、ここは霊力を持った土地だそうだから」

息を吐き、警戒態勢を解くと九峪は眼を屋敷の奥へと向けた。
幾つかの呪文を放ち、力の流れを可視化する。
何重にも組まれた結界の基点を複雑な力場の構築を解析する事で推定する。

「やっぱり要は屋敷の奥、当主の間とかかにゃ?」
「いや・・・、内側の結界の基点だけ敷地の中心からはちょっと外れているな。わざわざ後からずらしたみたいだ」

不可解な結果の構造に九峪は眉を顰めた。
こうした古い屋敷の結界は術式的に計算され精錬されたものが多い。
この屋敷の場合も方角や土地の力場に合わせて構成されている強力なものだ。
悪意ある者の外部からの侵入を徹底的に拒み、内に住む術者の力を底上げする効力。
もっとも、それ故に内部で発生した悪意の念が増幅され、住人達を食らうだけの力を持ったあの瘴気の大群が発生したわけだが。

「一番内側の結界だけだな。しかもかなり堅い。まずはこれから破るべきだな」

九峪はシュヴァルツを伴って屋敷の中へと進んでいった。
靴を履いたまま複雑に入り組んだ建物の中を歩く。
廊下の床は時折ギシギシと音を立てて僅かに凹み、朽ちた木材の臭いが埃や黴の臭いに混じって鼻先を漂っていた。
薄暗い室内は気のせいか酷くジメジメしていて、たまに瘴気の気配が隅で蠢くが先程の勢いは既になく九峪とシュヴァルツの放つ力の波動に照らされて消えていくだけある。
幾つかの結界をすり抜けて、二人は屋敷の中央にある和室に辿りついた。
古めかしい調度品がそのままに置かれ、今この瞬間にもこの部屋の主が戸を開けて入ってきそうな様子であった。
けれどそれは永遠に叶わない。
ここの住人は既に全て没している。
日本ではそれなりに名の知れた術者の一族であったらしいのだが、五年前に一族の最後の一人が死にその系譜は途絶えた。
そこでこの屋敷の相続は遠方に住む遠戚に移り、彼らが九峪に屋敷の解放を依頼したと言うわけだ。
それもわざわざドイツに拠点を構えていた九峪の元に足を運んでまで。
おそらくは彼らも知っていたのだろうと九峪は思う。
九峪雅比古と術者の一族の間にあった浅からぬ縁とやらを。

「この室内じゃないみたいだにゃ」

シュヴァルツが鼻をひくひくと動かしながら部屋の中を見渡した。
結界の基点となるような呪具は見当たらない。

「言ったろ、中心から外れているって」

あちらこちら埃の積もった調度品に触れていた九峪が部屋の一角に歩み寄る。
襖の一つに手をかけ開けると、そこにはぽっかりと小さな通路が口を開けていた。

「隠し通路・・・」
「まあ、貴重な呪具だったら隠しておくだろうさ」

二人は隠し通路の中へと入っていった。
灯りの無い暗闇、九峪は素早く鬼火を周囲に浮かべ光源を確保する。
細い通路を進んだ先にやがて広い空間が彼らの目の前に現れた。
部屋の中央に小さな社のような物が建っている。
九峪はふと室内の気温が下がった様に感じられた。
空気が澄んでいる。
勿論埃や黴の類は幾分マシになりはしたが依然として残っている。
しかし屋敷の隅から隅まで満ちていたはずの瘴気がここでは欠片すら感じられなかった。
浄化された空間、間違いなくここが結界の基点なのだろう。

「と言う事はあの社か」

九峪は社に手を触れようと伸ばし、そして飛び退る。
響く破裂音。
指先に走った痛みに九峪は顔を顰めた。

「随分と激しい反発だにゃ」
「ああ、守るべき人間はもういないと言うのに元気な事だ」

再び手を伸ばす。
今度は弾かれる事無く、しかし何かの壁にぶつかった様に九峪の手はそれ以上前に進まない。

「霊的なものだけではなく物理的にも遮断する強度の結界か・・・」

結界の表面を撫で、九峪はその構成を調べようとして即座に頭を振った。

「解除は無理だな。正式な手順を踏めば解けなくはないが、一月以上かかる」
「次の仕事が詰まってるにゃ」
「ああ、だから・・・」

九峪の紫紺の瞳が冷ややかに社を見据えた。

「社ごと破壊する」

先程よりも遥かに色鮮やかな輝きが九峪の全身を包み込む。
立ち上る魔力が空間を侵食し空気が軋む。
掲げられた手が社に向けて真横に薙ぎ払われた。
迸る力の奔流が無造作に結界を弛ませ、そして吹き飛ばす。
轟音が室内に反響し、結界を構成する力が引き千切られ散り散りに空へと溶けて消えた。
一瞬の内に跡形もなく社は消し飛んでいた。
外からの風が室内へと流れ込む。
ふと九峪は目を疑った。
何もかも破壊するつもりで力を放ち、その通りに結界は消滅した。
だが基点にまだ何かが残っている。
小さな台座に置かれた一枚の鏡。
古い、それも遺跡や何かから発掘されそうな銅鏡がそこには残っていた。
鬼火の光を反射してそれは煌々と暗がりの中に浮かんで見えた。

「あれが呪具か」
「破壊できなかったのかにゃ?」
「ああ、随分と力のある物らしい」

一時的に結界の基点としての役目を停止しているだけなのだろう。
結界を完全に壊すにはこの鏡を外に運び出すのが一番簡単な手段だ。
九峪は魔力を纏ったままその鏡に手をかける。
チリンと何処かで鈴の音の様な音がした。
シュヴァルツが訝しげに顔を上げる。
九峪も辺りを見渡そうとして、ハッと息を飲んだ。
何も映していない鏡から眩い光が零れ出している。
誰かの声が、子供の様な声が頭の中に響いた。

『・・ろ・、・・た・・・・・へ』

九峪の表情に焦りが浮かんだ。

「結界がッ!?取りこまれたのか!?くそ、最後の最後にトラップにかかるとは」
「ここから出るんだにゃ!!」

咄嗟に魔力をかき集めて術を起動させる。
だが、それはもう間に合わなかった。
鏡が放つ光に術の構成が狂わせられる。
その失敗の反動は真っ直ぐ九峪へと返る。
心臓を掴まれた様な鈍い痛みが体の中央に生じ、刹那息が止まる。
身動きが出来ず、九峪は苦痛のあまり大きく目を見開いた。
鏡の周囲の空間が歪み渦を巻く。
結界の内部の空気がその孔に吸い込まれていく様を九峪とシュヴァルツは呆然と眺める他なかった。

「九峪!」

シュヴァルツが九峪の足元の影に慌てて飛び込む。
それと同時に九峪の体が孔へと呑まれて行く。
空間にこれだけの干渉をする作用、あの孔の奥は一体どこに繋がっているのか。
九峪は自分の失策を悔やみながら流れに身を委ねた。
これ以上の抵抗は意味を成さず、かえって悪い結果を導きかねない。
願わくば次に目を開けた時には幾分マシな状況が目の前に広がっていますように、柄にもなくそう祈って九峪は目を閉じた。
やがて時空の渦が消える。
残されたのは鏡が置かれていた台座のみ。
それも白砂となって間もなく崩れていく。
九峪の姿は消え去り、同じく銅鏡もその存在を消した。

この日の事を、後に九峪は思い出す事となる。
運命の、全ての始まりの日として。





To be continued



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