黒い指先は混沌に触れ「奇跡にも似て非なるもの」


異界。
その存在は既に中世以前にも知られていた。
日本でも神隠しやマヨイガの様な伝承も残されている。
異界と自分達の住まう世界を一時的に繋げる術、それは所謂召喚術の様な形として確立されている。
しかしあれはその規模を遥かに超えていたと九峪は思った。
あの孔の続いていた先、つまりここは屋敷の外ではなく十中八九異界だろう。
術の構成も見事で、異界との間に一時的とはいえ人一人以上を通すパイプラインを繋ぐのだから、前代未聞の奇跡と言えよう。
あの銅鏡は内に一体どれほどの力を秘めていたと言うのか。
もう一度あの現象を再現しろと言われても人なる身では到底不可能。
ならば元いた場所に戻るにはあの鏡の力を使う必要があると言う事か。
だが今、あの銅鏡は九峪の手元にはなかった。
転移中にどこか離れた場所に別れた事だけは感じられたのだが、

「まさかあの鏡だけ向こうに残ったなんて事はないだろうな・・・」

それはまさに最悪の状況だ。
現状を打破するためには何としてもあの鏡が必要だ。
探さなければ。

「九峪!」

シュヴァルツの声が耳を打った。
頬を鋭く切り裂くような風とすれ違う。
服の上から突き出した枝が手足を突き刺すが九峪とシュヴァルツは一瞬たりとも走る速度を緩めなかった。

「何を考え事をしているんだにゃ!」
「現状の考察と打開策についてだ」
「ならさっさと打開するにゃ」
「出来るならとっくにやってる」

背後から追って来る草木を踏みつける無数の足音。
飢えた欲望の咆哮。
今彼らは野犬の群れに追われていた。
一匹や二匹の野犬程度ならどうということはない。
しかしながら何十匹という群れであるならば話は別。
一旦捕まればその牙と爪を突きたてられて肉を引き裂かれ無残な屍をさらすこととなるだろう。
九峪はもちろんのこと、シュヴァルツも猫の天敵の犬に喰われる最期など絶対に容認できない。
余裕のある発言とは裏腹に九峪の表情は徐々に苦痛と疲労で歪んだものになっていった。

「くそッ!こんな時に!」

走るペースが落ちてきた九峪のすぐ傍を野犬の鼻先がかすめる。
咄嗟に抜いた儀礼用の銀のナイフが走り、鮮血を撒き散らす。
犬が悲鳴と共に地面の上に転がり無残な傷口を晒す。
九峪は忌々しげにナイフを見た。
儀礼用のナイフとは言え魔力をコーティングし切れ味と強度を底上げしたはず、しかしナイフはたった一度の使用で見っとも無く刃を歪ませていた。
魔力が弱まって、否、枯渇していた。
あの転移の影響か、あるいはその前の魔術の失敗による返しの影響か。
九峪とシュヴァルツは一気にスピードを上げて駆けてゆく。
僅かに野犬の群れとの間が空く。
しかしこんな足場の悪い山の奥で犬と走る速度や持久力を競った所で負けることは確実。
九峪もシュヴァルツも徐々に近づいてくる体力の限界に焦りを感じ始めていた。

「そろそろ疲れてきたな」

無理矢理生命力を魔力を変換した事もあり、積み重なった疲労感が体の動きを鈍くしていた。
大きく足を上げて地面から突き出た大きな木の根の障害物を飛び越える。
着地の微かな衝撃が予想以上に足に響いた。
魔術で野犬を一掃できれば良いのだが、今のコンディションでそれをすれば間違いなく昏倒する。
とはいえ立ち止まれないこの状況で出来ることを九峪は思いつかなかった。

「おい、シュヴァルツ、使い魔だろ。何かやれ」
「無茶を言うんじゃないにゃ!」
「使えん奴だな」
「人の事は言えないんだにゃ」

目の前に出現した太い枝を間一髪で潜り抜ける。
しかし次の瞬間九峪ははっと右に顔を向ける。
いつの間にか横に新たな野犬の群れが出現していた。
はっと逆の左側を見ればそこにも十何匹という数の犬が徐々に距離を詰めながら駆けてくる。
血の気が引き、熱くなっていた体が冷たくなるような感覚を覚えた。
もはや手段を選んでいる場合ではない。

「・・・切り札を切るぞ、シュヴァルツ」
「にゃ!?」
「もう手段は選んでいられないみたいだからな」

ごそごそと左手を懐に突っ込んで、一本のナイフを抜き出した。
鋭い一点の曇りもない銀色に輝く細身の刃。
豪華な装飾が施されており、一目でそれが実用的な物ではないことが分かる。
九峪は一瞬だけ背後を振り向き、野犬の群れからの大まかな距離を測る。
流石は野生の獣か、纏う気配が変わった九峪に対して警戒を露わにしている。
しかし飢えはその恐怖を瞬く間に食い潰したようだ。
数匹が涎を撒き散らして九峪に食らいつこうと飛びかかってきた。
焦りと恐怖を鎮め、己の深淵に向けて意識を集束させる。
詠唱や魔方陣などいらない。
全てはイメージだ。
少しだけ枷を外す。
カチリと感覚の鍵が合う。
膨れ上がった力が全身の毛穴から噴き出してきそうだ。
にっと唇の端を持ち上げて九峪は目を開けた。
鮮やかな色を湛えた瞳が一瞬縦に裂け、すぐに元に戻る。
『剣』が振るわれた。
黒い閃光が野犬の体に走った。
ドサドサッと何かが倒れるような音が断続的に重なる。
それに加え、怯えるような甲高い鳴声。

「早く戻すにゃ!」

シュヴァルツが脚を止め振り向いて言う。
折り重なるように無数の犬が倒れ、力なく開かれた口元からは涎に混じって赤い液体が漏れていた。
ビクビクと小刻みに跳ねる断末魔の痙攣が生々しい。
生き残りの犬もしばらく遠巻きに様子を窺っていたが徐々にその数を減らしていった。

「終わったか」

九峪は右手から力を抜く。
いつの間にかそこにはナイフの代わりに黒い剣が握られていた。
しかし剣は九峪が大きく息を吐くと同時に煙の様に消え去っていく。
焦げた様に黒ずんだナイフが手の中に残っていた。 微かに痺れるような痛みが右腕に走る。
使い物にならなくなったナイフを無造作に地面に投げ捨てると、九峪はぐったりと地面の上に座り込んだ。
安堵の息を吐き、手を額に当てて初めて噴き出した汗に気づく。
九峪は着ているワイシャツの襟元を大きく開き、ズボンから裾を引っ張り出して風を服と体の間に送り込んだ。

「最初からこうしてればよかったんだにゃ」
「・・・うるさい、頭に響く」

尻を地面に付けて半ば座り込んだシュヴァルツ。
ズボンに付く汚れが気になるが九峪も疲れには逆らえずそのまま座り続けた。

「意識が飛びそうだ・・・」
「今眠ったらまた襲われるにゃ」
「だから起きてるだろ」

しばらく体を休めて息を整えると九峪は立ち上がった。

「さて、そろそろ行くぞ」
「でも行くあてはないにゃ?」
「あてがないならどこに行こうが同じだろう?」

九峪が指差した方向は依然木々が広がっているばかりで道の一つも見えてこない。
昨日からずっと森の中を彷徨っている二人にとってその行く手に希望の光はほとんど見出せなかった。
シュヴァルツが胡散臭そうにじろっとそちらに目を向けた、


ドォオオオン・・・


突然に二人の耳に爆発音が飛び込んできた。
距離は少し離れているようで周囲に染み渡るように音は響いてくる。
木々の間から見える空には灰色の煙が上空へ立ち昇っている。
そして奇しくも九峪の人差し指がその方向を指し示していた。
ハッと顔を見合わせ、次の瞬間二人は疲労を忘れて駆け出して行った。





「ちっ、屑共め、時間稼ぎにもならないのか」

彼女は舌打ちをして油断なく周囲を見渡す。
再び放たれた紅蓮の閃光が瞼を焼く様に輝き、前方に着弾する。
広がる爆炎が地面を抉り、蠢く無数の屍を粉々に吹き飛ばした。
鼻をつく焦げた空気が熱をはらんで彼女に降りかかった。
片腕を盾にしてその光景を睨みつける。
彼女の前に立ちふさがる四人の女。
その内二人は腕の立つ方術士だった。
そして斜め後で構える男女は剣を手にしていた。
圧倒的な劣勢。
下手に動き隙を見せることはできない。
敗北と死はもうすぐそこまで迫っていた。

「深川とか言ったな。先程の屈辱、万倍にして返させてもらうぞ」

一人の女が一歩踏み出して言う。
気の強そうな女の口元に刻まれた嘲りの笑みに深川は目の前が真っ赤に染まったように錯覚した。
わなわなと震える唇の隙間からギリッと歯軋りの音が漏れる。
思考が憎悪と屈辱で染まり、握り締めた掌には爪が刺さり血が滴っていく。

「この、この私が負け・・る?」

有り得ない。
何故これほどの屈辱を味わわなければならないのか。
自分は常に強者の立場にあるはずだ。

「さあ、覚悟を決めよ!」

壮年の男が声を上げて水平に剣を構え、闘気をみなぎらせる。
一瞬の静寂。
そして、

「あああああああああっ!!死走傀儡!」

喉の奥から迸る咆哮にも似た叫びと共に深川は真っ直ぐ前へ飛び掛る。
一人だけでも道連れを!
素早く懐から呪符を抜き取り、深川はそれを死体の山に叩きつけようと腕を伸ばそうとして、

ドン

「ぐっ・・・はっ・・・!」

気づけば木の幹に叩きつけられていた。
衝撃で息が詰まり、遅れて激痛が全身に走る。

「あ・ああ・あ・・・・」

吐血。
意識が途切れそうになる。
指一本でさえ動かすことができなった。
辛うじて動く首をひねる。

「お姉様、この女をどうします?」

大きな鎚を構えた女が深川を見下ろしていた。

「そうだな、いろいろと聞き出したい所だがお前の馬鹿力で殴られたんだ、致命傷だろうな」
「では止めを刺しましょうか」

黒装束に身を包んだ女が冷たい視線を向けていた。
くそ、もう駄目か・・・
意識が暗く冷たい闇に飲み込まれていく。
そして最後に深川が聞いたのは、

「悪いがその女は俺がもらう」

そんな言葉だった。





「誰だ、貴様っ!」

誰何の声を聞いて九峪はふっと苦笑いを浮かべる。

「久しぶりに日本語を聞いたような気分だ」

ただひたすら怪しい。
突然の乱入者に対する敵意どころか殺気に満ちた空間で九峪は悠然と佇んでいる。
目の前に広がるファンタジーな光景。
術者がこうも大胆に戦闘を繰り広げるとは、色々と面倒が多い日本では考えられない。
自分達がいある場所が紛れもなく異界なのだと思い知らされる。
だがそれを感慨深く思う前にするべき事があった。

「その女は俺がもらって行くと言った」

他の者には興味はなさそうな、そんな調子。
それに対して女達は困惑の様子を隠せないでいた。
しかし聞き逃せない台詞に反応を示す。

「貴様、その深川とやらの仲間かっ!?」
「仲間になったことはないが、少し用がある」
「左道士!?」

ざわっと緊張が高まる。
しかし九峪はそれを見て、ふぅと小さく溜息をついた。

「使える魔力はほとんど残っていないんだ。遊びはないぞ」

その声を聞いて、黒衣の女と男が一斉に九峪に対して間合いを詰めていく。
立ち尽くし隙だらけの九峪の急所を二本の剣は確実に捉えてていた。
殺った!
そう誰もが確信し――

「っ!?」

貫いたはずの手ごたえはなかった。
九峪の姿は水面に映る影の様に揺らめいて消え去る。
そして

トン

「チェック」
「・・・え・・・」

響く静かな声。
軽く柄を持ち、その刃は女の肩に半ばまで食い込んでいた。
刃に籠められた呪いが発動し、ゆっくりと女の体から力が抜けて前のめりに崩れていく。

「清瑞っ!!」

清瑞と呼ばれた女が地面に激突する直前で九峪に蹴り飛ばされる。
地面の上に転がった女の体を男が抱き止めた。

「急所は外しておいた。優しいだろう?」
「!?」
「いつの間に!?」

僅かな時間、深川から目を離したその刹那の時間。
いつの間にか深川を抱きかかえた九峪が後方へ下がっていた。

「貴様っ!?清瑞に何をした!」
「ああ、その女か?ただ寝てるだけだ」
「衣緒、その男を逃がすな!」

衣緒が九峪を追いかけ駆けだそうとする。
九峪はちろっと視線を向ける。

「お前らはこいつらと遊んでおけ」

その言葉が終わるや否や、九峪の足元に広がる影がぐにゃっと蠢く。
沼地の水面のような粘性のあるうねりを見せ、そしてそれを突き破るように何十、何百匹もの黒い蛇が這い出して来る。

「何っ!?」
「へ、蛇!?」
「じゃあな」

身を翻して走り去る九峪を追いかけようとして、彼女達は蛇の群れに阻まれる。
黒光りする胴体をうねらせて、猛然と突進してくる蛇の大群。
ぞっと背筋が凍りつく。
清瑞を抱えた男が慌てて駆け寄ってくる。

「た、退却しましょう、星華様!」
「え、ええ、ええ!」

だがいつの間にか周囲を包囲するように黒蛇の波が押し寄せていた。
鎌首をもたげてちろちろと出入りする舌。
ざざっと地面の上を這う音が重なり合う。

「蛇は耶麻台国の神獣なのに何故左道士が!?」
「もうこうなったら焼き払うしか・・・」
「間に合わないっ!」

急激に輪は狭まり、そしてついに先頭の十数匹が口を大きく開いて飛び掛ってきて・・・


消えた。


「・・・・・・あ・・・」

ふっと煙のように消える。
地面には蛇の鱗一枚はおろか、這った痕跡すら残されていなかった。

「まさか・・・幻覚・・?」

彼女達が惑わされた事に気付いた後もしばらく呆然と立ち竦んでいた。





その頃、九峪は適当な距離をかせいだと判断して抱えていた深川を地面に下ろした。
追手は当分は来れないはずだ。
幻覚に混ぜて放った呪が彼女達から方向感覚を奪っている。
半日ほどはあの辺りをぐるぐると彷徨うことになるだろう。
それよりも問題なのは深川の方。
微かに聞こえるうめき声と苦しげに漏れる息がまだ生きている証拠。
出血は吐血だけであったが、体の内部を突き抜けていった衝撃は人間の命を奪うのに十分なものであった。
おそらく内臓に傷が付き、骨も突き刺さっているかもしれない。
彼女は辛うじて生きていた。

「何もしなけりゃもう死ぬな」
「だにゃ」

しゃがみこんで深川の様子を窺っていた九峪はそう言い切る。

「でもそれじゃあ助けた意味がないにゃ?」
「聞きたい事もあるしな」

腕を組んでじっと深川を見つめながら考える。
意味のない魔術の使用は九峪の嫌う所である。
さらに言えば緊急事態として引き出した魔力はもう残りわずか。
目の前の女を助ける為に使えば今度こそ完全に枯渇してしばらく術が使えない状況に置かれる事となる。

「困ったね」

折角この世界の人間に出会ったのだから話をしてみたいし、これからの道案内をさせたい。
さらに言えば顔だちは整っていてきつめの感じの美女。
みすみす見殺しにするのはもったいない。
そして何よりも彼女が最後に使おうとしたあの術、彼女が使っていた他の術とは違って非常に高度に練られたあれを誰から学んだのかを聞きださねばならない。

「仕方ない、やるか」

出血を止めて、傷口に薄皮を張らせる程度だがやらないよりはマシだろう。
九峪はなけなしの魔力と体力を振り絞って再生を司る言葉を吐き出す。
今度こそ意識を薄れさせながら。





To be continued



Back】 【Next】 【Back to Index


inserted by FC2 system