黒い指先は混沌に触れ「それはたおやかな悪意」


「大丈夫か?」
「うるさいっ」

パシッと乾いた音をたてて差し出した手が叩き落とされた。
忌々しいと吐き捨てる深川に対して九峪は気を害することなく楽しそうに笑みを浮かべていた。
深川は手に付いた土を払うとゆっくり体を起こす。
始めは痛みによって動かなかった体も徐々に慣れてきたのかスムーズに動かせるようになったのだが、それでもまだ時折木の根などに足をとられてしまう。
そしてそのたびにクスクス笑いながら手を差し出してくる九峪に殺意を覚える。
行動を共にするようになってから二日が経った。
何度か逃げ出そうとしたり寝込みを襲ってみたものの結果として一度たりともそれは果たされなかった。
逃げようとすれば突然体が何かに縛られたように動けなくなり、寝込みを襲っても目を覚ました九峪にかわされ触れることすら出来なかった。
悔しいことにささやかな抵抗以外できることはなかったのだ。
しかもこれで本調子ではないらしい。

「だらしがないにゃぁ」

足元で黒猫が馬鹿にしたように鳴く。

「このっ、畜生の分際で!」

ぶん、と降られた拳はあっさりと空を切る。
悠々とそれを交わしたシュヴァルツはもう一度目を細めてにゃぁと鳴いた。

「な、何でこんな目にっ」
「おい、早く行くぞ」
「黙れ!」
「口が悪いにゃぁ」

深川の感情の沸点はそう高くないのだが何度も繰り返されたやり取りにぐっと奥歯をかみ締めて爆発を抑える。

「この分だと街までまだまだかかりそうだな」
「だにゃあ・・・」

九峪とシュヴァルツがチラッと深川に視線を向け、ふう、とわざとらしくため息をついてみせる。
ぎりっと歯を食いしばる音を飲み込む。
一々文句を言っても仕方がない。
ここは我慢だ、堪えろ私。

「行くぞ」

そう言うと九峪は地面に置いた荷物を持ち上げて歩き始めた。
シュヴァルツもその横につく。
くそ、なんでこんな目に遭わなくてはならないんだ・・・
絶対に殺してやる、と深川は心の閻魔帳に新しく書き込んだ。





「ふう、疲れた体には温泉か。天然で湧いてるなんて運が良い」

九峪は濡れた髪をかき上げてほっと息をつく。
疲れた、よく言うよ。
深川はそれを横目に見ながら呟く。
むしろ体力的にきつかったのは彼女の方で、九峪は少しもそんなそぶりを見せなかった。
衣を脱いだ時に見えた九峪の肢体は引き締まった筋肉に覆われていた。
無駄なく鍛えられたそれはギリギリ敏捷性を失わず且つ強力な筋力を発揮できる実戦的なものだった。
深川のような戦う人間が見ればそれが如何なるものであるかはすぐに分かった。
そしてもう一つ、全身にはしる奇妙な刺青。
それは心臓の上の円を中心に手足に線を伸ばしており、手足の甲の上で再び円を描いていた。
背にも大きな円が描かれており、それぞれの円の内部と周辺には複雑な文字らしきものがびっしりと描かれている。
深川もそれに似たようなものは見たことがある。
狗根国では奴隷には服従の印章を体のどこかに入れるし、深川のような左道士は術の補助に刺青を使うものもいる。
そういったことから見て、九峪はおそらく左道士に近い者なのだろうと彼女はあたりをつけていた。

しかし一体こいつらは何者なのだろうか。
深川はちらっと温泉から少し離れた岩場の上で丸くなっているシュヴァルツを見る。
人の言葉を話すとはいえそこはさすがに猫というべきなのか、シュヴァルツは温泉に足すらつけようとしなかった。
一度九峪によって強引に湯の中に引きずりこまれていたがすぐに飛び出していた。
一応は猫であるらしい。
そして九峪。
シュヴァルツの隣に畳んで置かれている衣服は九峪が深川と出会った時に着ていたものとは違う。
昼間に森の中で出会った行商人らしき男が身に纏っていた物だ。
その辺に放置されている荷物もその男が持っていたものだ。

つまりその男を殺して、奪い取った。

本当に一体この男は何なんだ・・・
九峪が旅の男を殺す動作には躊躇いなど微塵もなかった。
背後から忍び寄り、あっさりと首と頭を押さえて首を捻った。
むしろそれは熟練した殺しの一撃で、おそらく男は何が起きたのかも理解することなく死んでいったのだろう。
必要とあれば殺して奪い取るということは深川にも理解できる。
しかしそういう考え方を持ち生きてきた者は大抵が坂を転げ落ちるように心の闇に囚われる。
深川のように人を殺すことに快楽を覚え始めるようになれば後は真っ逆さまだ。
だが九峪はどうだろう。
かけられる言葉の端々から窺えるのは殺人者には似つかわしくないほど落ち着いた性格だ。
その一方で出会った時に見せた瞳の中の深淵。
目を覗き込まれた時、まるで底が見えない淵底を覗き込んでいるようで足が竦んでしまった。
一歩踏み出せばその中に飲み込まれていくようで、必死で地面にしがみ付くように耐えた。
あれ以来何度か目が合うことがあったがあの瞳に出会うことはないと分かっていてもつい目をそらしてしまう。
自分が恐れているというその事実が全くをもって忌々しかった。

「どうした、湯中りを起こしたか?」
「違う。考え事をしていただけだ」

一瞬だけ睨みつけ、ふいっと顔をそらす。
それを見た九峪は少しだけ口元をゆるめる。

「そういう反応は普通の女なんだけどな」
「はぁ!?何を寝ぼけことを言っている」

先程まで考えていた恐れなどどこかへ吹き飛んでしまったのか、深川はキッと九峪を睨みつけた。
それに対する九峪は岩場に肘を乗せ、掌を頬を当てて深川の様子を眺めていた。

「折角綺麗な顔をしているんだ、少しはそれらしく振る舞ってみたらどうだ?」
「断る。私は貴様の玩具になどなる気はない」
「そう?残念だ」

九峪はそっと肩をすくめる。

「ま、そういう気質の女性は結構好きなんだけどな」
「馬鹿か、貴様は」
「馬鹿で結構。その点では深川は俺の好みかな、美人だし」
「私は貴様の相手なぞ御免だ」
「じゃあ気が変わったら、でよろしく」
「絶対に有り得ん」
「そうは言ってもどう転ぶか分からないのが人生ってものだろう?」

楽しげに笑う九峪は果たして冗談で言ったのかそれとも本気なのか。
凶暴な気配は微塵も感じさせない。
稀にこう言う人間がいる。
狂気を強固な意志で封じ、悟らせない者。
そして総じてこの手の類の者は酷く性質が悪いのだ。
シュヴァルツが少しだけ顔を上げて二人を見ていた。
そしてピクンと耳を動かす。
それに少し遅れて九峪もくるっと首を回した。
視線は木々の奥へと向けられている。
つられて深川も振り向くが、

「・・・誰か来るみたいだにゃ」

シュヴァルツが言う。

「人数は?」
「三人かにゃ。この温泉に浸かりに来たみたいだにゃ」
「そうか」

九峪はそれを聞くと少しだけ肩の力を抜いた。

「俺達に危害を加えようとしなければいいさ。このまま待つか」





「へぇ〜、狗根国の連中に?」
「ああ、参ったね。まさかこんな山奥まで狗根国軍が動いてるなんて」

深川から得た情報を元に作り上げた自分達の架空の境遇を口にしてため息をついて見せた。
狗根国という軍事国家に支配された九洲、それがこの世界の、今いる土地の有様だ。
故に九洲の者達から同情を引き出すのは酷く簡単で、自分達も同じく虐げられた存在なのだと言ってやれば良い。
負け犬同士惨めに傷を舐め合うが如く、彼らの警戒心は狗根国のフレーズに向かってくれる。
彼らの前に姿を現したのは二人の女と一人の少年だった。
二人の女は九峪と同じ年齢か少し上ぐらいで、少年はその少し下ぐらいの年齢に見えた。
この近隣にすむ山人、すなわち狩猟によって日々の糧を得ている者達であるらしい。
彼女達は狩りの疲れを癒すためにこの温泉に来たと九峪達に告げた。

「ちょっと前まではこうでもなかったんだが、最近はどうやら耶麻台国の人間が動いてるらしくてね。あちこちで兵を見かけるよ」
「ふーん、そうなのか・・・、あんた達は奴らに出くわさなかったのか?」

九峪は黒髪の女性に尋ねた。

「ああ、歩くのは大変だが獣道を歩いていたからね。そうすれば厄介な奴らは避けられるんだ」
「俺も見習おうかな」
「慣れない人には少し辛いかもね」

彼女はそう言うとちらっと深川に視線を向ける。
それに気づいた深川の表情が少しだけきついものになる。
警戒するように睨む目に彼女は少し戸惑い、九峪に顔を向けた。

「ああ、そいつ、狗根国の奴らに捕まっていたんだ。どうやらその時にいろいろあったらしくて・・・うまく喋れないみたいで」
「え・・・、そっか、可哀相に」

みなまで言わずとも言葉の端から事情を察して、もといいろいろと想像してくれているのだろう。
無論わざとそう仕向けたのだし、その方が都合がいいから九峪はあえて何も言わず曖昧に苦笑いをしてみせる。

「もう大丈夫だよ」

もう一人の青みがかった髪の女が深川の肩に手を伸ばす。
にっこりと笑って、害意がないことを示しながら――

パシッ

「いたっ!」

弾かれた手が所在無くしばし宙を彷徨う。
気まずい空気が流れて、

「やっぱりまだ警戒してるみたいだなぁ・・・」

九峪が場をとりなすように呟いて、少しだけ雰囲気が緩んだ。

「ご、ごめんね」

謝る青髪の女を尻目に深川は湯から上がると体についた水滴を適当に手で弾くと岩場の影で服を着る。
そしてそのまま静かに彼らの視界から消え去った。

「・・・悪いな」
「う、ううん、私が気軽に触ろうとしちゃったから。え〜と・・・貴方が」
「九峪だ。九峪雅比古」
「あ、私は上乃ね!」
「伊万里だ。で、そっちのが仁清」

隅の方で静かに座っていた少年が少しだけ頭を下げる。
人見知りが激しいのか、言葉は発さなかった。

「ねぇ、九峪さん、私達の村に来ない?」

上乃と名乗った女が言う。
それを聞いた九峪は少しだけ目を丸くする。

「俺達みたいな余所者が行ってもいいのか?普通の村は閉鎖的なものだろ?」
「普通はね、でもうちの村はちょっと普通じゃないから」
「うん?」
「あまり大っぴらには言えないんだけど・・・、村の長は耶麻台国の武将だった人でね。だからよく狗根国の奴らに追われている人を匿ってるんだ。九峪さんも来ると良いよ」
「・・・いいのか?そんなことしてて。ばれたら大変だろ?」
「ばれなきゃいいのさ」

ふふん、と得意げに伊万里が語る。

「だから大丈夫だよ。何なら私達も口添えしてあげるし」

深川さんにとってもその方がいいでしょう、と続けて上乃がにっこりと笑う。

「そうだな・・・、じゃあ少しだけ世話になるよ」

九峪も笑みを浮かべて、ありがとうと告げた。
光の反射のせいか、漆黒の瞳が僅かに深い紫に染まった。
そしてそれは誰にも気づかれることはなかった。





もう少し彼女達と当たり障りのない会話を交わして、九峪は先に温泉から上がった。
濡れた体に風が当たって涼しい。
不意に肌に風とは別のものを感じた。
ふっと先程とは打って変わった皮肉げな笑みを浮かべる。
もう一度風を感じた。

「やめとけ、よッ」

スッと体を横にずらすと横腹をかすめるように短剣を持った腕が突き出していった。
それは九峪が護身用にと深川に渡したものであった。
片腕でその腕を絡めとるように受け止め、襲撃者の足を払う。
体躯の利もあり、あっさりと押さえ込むことに成功した。

「さて、これで何度目の俺の勝利だったかな?」

上から圧し掛かるように相手の体を固定する。
憎々しげな深川の表情を見下ろして九峪言う。
深川は口を開こうとして、何か諦めたように再び閉じた。

「ああ、いつまでも言葉を封じられているのはつらいか。少しだけ解除してやる。だが大声は出すなよ、あいつらにばれると面倒だからな」

九峪は左の人差し指でそっと深川の唇に撫でるように触れた。
刹那赤い小さな文字が指を中心にして現れ、消える。

「・・・よくもまああんな大嘘が次から次へと出るものだ」
「そういう設定にしておいた方が楽なんだよ、後々な。お前のおかげで同情をひけただろう?」
「そのために暗示までかけて、か?」
「そこまではしてないさ。匿ってくれると言ってたのは純粋に向こうの親切心からのようだ」
「・・・この私が、大人しく耶麻台国の残党共に世話になると思っているのか?」
「なれ。どうしても駄目だというなら強制的になってもらうが?」

九峪の瞳が紫紺に色づく。
禍々しく輝きを放ち、脳内にいくつもの小さな囁きが重なるようにエコーする。
脳に焼き付くように言葉が刻み込まれていった。

「やめろ!」

深川は首を振って囁きを追い払おうとするが九峪は左手で深川の口を押さえた。

「だから大声出すなって」

ふっと瞳の色が元の黒に戻った。
不快な侵入の感覚が消え去る。

「ま、悪いようにはしないから当分大人しくしていてくれ」
「貴様・・・、いつか絶対に殺す」
「楽しみにしてるよ」





To be continued



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